1966年5月17日 マンチェスター・フリー・トレード・ホール。

  聴衆の一人:Judas!    
        ユダ!(裏切り者)・・・歓声と拍手

  ディラン :I don't believe you......You're a LIAR.
        お前のことなんか信じないよ・・・お前は嘘つきだ。

        Get fuckin' loud!
        でかい音で演ろう!

       最後の曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」を始める。

 記ディランと聴衆とのやり取りが語り継がれ引用され続けた結果、伝説となったコンサートの音源が、去年1998年ついに正規盤としてリリースされた。「BOB DYLAN-LIVE 1966」。ボブ・ディランとそのバック・バンドのザ・ホークス(後のザ・バンド)が残した、孤高でしかも最高のロックがここにある。トニー・グローヴァーによるライナー・ノーツにはこう記してある。「これほど挑戦的で独善的な演奏をおさめたテープはほかにないだろう。」


1962年にレコード・デビューしたボブ・ディラン。「風に吹かれて」が公民権運動のテーマソングみたいに歌われ、自身も1963年のワシントン大行進やミシシッピ州選挙人登録集会など、政治色の濃い集会に参加し歌った。このようなことから彼はプロテスト・フォーク、時事問題を歌うトピカル・ソングなどのファンからニューヒーローとして認められた。当時のフォーク・ファンというと、体制文化やポップミュージックに意識的に背を向け、ドラムやエレキ・ギターなどの電気楽器はポップ・ソングのシンボルとして忌み嫌っていた。有名なニュー・ポート・フォーク・フェスで当時歌われていたのは純粋なトラディショナル、マウンテン・バラッド、スピリチャル、ブルース、ブルーグラス、そしてトピカル・プロテスト・ソングなどだった。

 のニュー・ポート・フェス1965年、そんなピュアなファンの前にディランはエレキ・バンドを引き連れて登場した。もちろん聴衆の多くはとまどい、そしてディランの裏切りに怒り声をあげた。フォークの聖地ニュー・ポート・フェスでロックを演ったディラン、旧来のファンとの訣別を意識していたのだろうか。
「ぼくは"サブタレニアン・ホームシック・ブルース"という曲を作った。一人でこの曲を歌ってみたがうまくいかなかった。(中略)結局、バンドと一緒に歌うと、いちばんぴったりした。ぼくが変わったわけではないのだ。ただ、一人でギターだけで歌うことに飽きただけだ。」ディラン、当時のインタビューより


1961年クリスマスの頃、ガース・ハドソンが加入しザ・ホークスは後のザ・バンドとなるメンバーが揃った。ガースとリヴォン・ヘルム、ロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、リック・ダンコ。ザ・ホークスはロカビリー歌手ロニー・ホーキンスのバック・バンドとして集められ、アメリカ、カナダで毎晩のようにライヴをこなし、すごくタフなロックンロール・バンドに成長していた。そしてメンバー全員、アメリカ南部のサウンド、特にブルース、R&Bに夢中だった。

 んなザ・ホークスに、ディランのバック・バンドの話が来た。そして1965年9月末ディランとの長いアメリカ・ツアーが始まった。
 ィランからバック・バンドの話が来た頃、彼らホークスのディランに対する印象というのが面白い。
「僕はディランはソングライターで、ギターを持って一人で歌う吟遊詩人タイプと考えていた。リチャードは”だってヤツはギターのジャカジャカ屋だぜ”といってバカにした。その頃僕らはナマイキでフォーク・シンガーのことをそう呼んでいた。」リヴォン・ヘルムの自伝より


 アーは前半がディランの弾き語り、後半がホークスをバックにしたエレクトリック・セットという構成だった。前半、静かに友好的だった聴衆も、後半になると決まってディランとバンドに罵声を浴びせた。それが決まり事かのように。11月に入ってドラムのリヴォン・ヘルムがブーイング生活に嫌気がさしバンドから去った。ツアーは新しいドラマーと共に続いた。ツアーを重ねるうちに状況がすこしづつ良くなり、新たなファンが増えるようになった。エレクトリック・セットで録音された6分におよぶ大作「ライク・ア・ローリング・ストーン」が大ヒットしていた。それでもブーイングは絶えなかった。
1966年4月、ヨーロッパ・ツアーが始まった。バックはザ・ホークス。前半弾き語り、後半がエレクトリック・セット。案の定どこでもブーイングの嵐。
「" ライク・ア・ローリング・ストーン " はB級作品。単調なメロディラインと表現力に欠ける単調な歌い方、ストリングス(?)とエレキギターが入っているので、純粋なフォーク・ファンの怒りを買うのは必至。ディランはあきらかに批評家を混乱させることと、悪魔の電気楽器に転向することを楽しんでいる」当時のイギリス音楽誌の記事より

 コットランド共産党は、プロレタリアの大義を裏切ったディランに対して、コンサートでは調子を合わせてゆっくりと手を叩くこと、途中で席を立って帰ることを事前協議していたと言う。(なんと、まあ!!!)
 ンサートは、敵対心にみちた客のブーイングに晒されながらも、演奏そのものは素晴らしかった。冷たいメディアの反応に反して、多くのミュージシャンの支持も得た。
「コンサートは光り輝いていた。ディランが芸術のために生きていたからだ。自分を燃焼させていたからだった。客を喜ばせるためでも義務からでもなく、勇敢な仲間と共に未知の美の領域を旅し、未踏の闇に明かりを灯す喜びのために、彼はそれをやっていた」ポール・ウイリアムズ著「ボブ・ディラン/瞬間の轍」より

1966年5月27日。ロンドン、ロイヤル・アルバート・ホール。ツアーの終了。
 同年7月末、ディラン、ニューヨーク郊外ウッドストックでバイク事故。
 翌年11月まで隠遁。


1966年5月17日 マンチェスター・フリー・トレード・ホール

 「サンキュー」”ライク・ア・ローリング・ストーン”を歌い終え、一言だけ言って会場を後にしたディラン。取り残された観客は黙り込んだままだった。

 「ロビーが曳光弾のようなソロを会場に撃ちこむと、

         そこはまったくの新世界になった」リヴォン・ヘルムの自伝より


                            (1999年7月5日)