友部正人さんと俺達

'96年7月、友部正人さん小野由美子さん御夫妻と六日町温泉「龍言」で遊ぶ。
(左から栄一さん、ユミさん、私、友部さん、洋一さん、仁彦さん、俊久さん)

 ★耳をすます旅人

 旅の雑誌「じゃらん」に連載されていた友部さんのエッセイが単行本になりました。写真はユミさん。そしてなーんと僕達と龍言で遊んだ時のことも載っています。
『耳をすます旅人 / 友部正人』(水声社)です。ぜひ読んでみて下さい。

 歌う旅人友部さんが日本中で出会った人達、風景、モノなどについて、やさしく繊細なまなざしで語るエッセイ集。あなたもきっと旅に出たくなりますよ。(1999.11)

 「友部正人十日町ライヴ」によせて (2004年)

 前回2002年12月、十日町で今回と同じ会場でLiveをして、年が明けて1月12日が友部さんのデビュー30年記念コンサートだった。僕は友人と雪の峠を越えて鎌倉までそのコンサートを聴きに行った。ロケット・マツ、武川雅寛、知久寿焼、関島岳郎、水谷紹、横澤龍太郎、安藤健二郎といった素晴らしい仲間達に囲まれた素晴らしいコンサートだった。普段の友部さんは " ぼくは彼に会うと 少し照れながら「やあ」って言う " って感じでちょっとシャイな人なのに、ステージ上の友部さんはまさに小さな巨人だ。心優しい旅する巨人だ。百戦錬磨でタフなシャイで優しい歌い人だ。

 " 風は強いけれど ちゃんと立っている人にはやさしいもんだ "(中道商店街)
 " 夢はなかったけれど ときには泣きたいほどやさしかったよ "(にんじん)

 '72年に『大阪へやってきた』でレコードデビュー。「一本道」は歌の持つ喚起する力を知らしめた名曲だ。"ふと、うしろを振り返ると、そこには夕焼けがありました〜 " の一節だけで、あの頃の思春期〜青年期の様々な心情が甦る。孤独を愛することもできたし、閉塞感を感じる程ではなかったし。" ああ、中央線よ空を飛んで、あの娘の胸につきさされ " やるせなさや焦燥感それとも無軌道な情熱そして失恋か、そんな感情を表現するためにこんな詩をはき出した友部に天才を感じたりもした。
 あれからどのくらいたったのか・・・。

 もう30年以上も、友部正人は歌い続けている。ギターを弾きながら、ハーモニカを吹きながら、歌い続けている。これだけ長く歌い続けているのに、友部の歌には垢がつかない。不思議なほどに垢がつかない。どうしてなんだろう。友部の歌は諭さないし威張らないし甘く囁かないし癒そうとしているわけでもない。「さりげなさ」なのだろうか。それはスルドイ「さりげなさ」なのだが、さりげない日常をさりげなく歌う。シンプルに歌われることで、さりげない日常の中にさりげない物語を発見する。日本人は物語を忘れつつある。だから友部の歌にさりげない物語を発見した時、ちょっとだけホッコリと温かい気持ちになる。

 そうか!友部正人は現代の語り部であり吟遊詩人であり・・

" 転がる石に苔はつかない〜Like a Rolling Stone " 旅から旅へと歌い続ける友部正人。その" Never Ending Tour〜終わりなき旅路 " に祝福を。

                     
(2004年10月)

 ありがとうございました。11月23日「十日町ライヴ」 。以前に増してポエトリー・リーディングが聴かれました。言葉にこだわる友部さんの前向きな意志が感じられたコンサートでした。僕も大好きだった「ガロ」の長井さんの唄の飄々とした感じ、なつかしい「にんじん」が聴かれたし、「遠来」にはやっぱり感動したし、主催者として1ファンとして、とても楽しい一夜でした。もちろん打ち上げも充実でしたよ。
 翌日は友部さんユミさん、仲間の関口さんと4人で清津峡温泉で観光しました。「清津館」の清君・昌子さんご夫妻、ありがとうございました。
(2000.11.25)

 ★『友部正人のまっすぐな唄』

 友部正人はまっすぐに唄うデビューして26年、ただひたすらに自分の唄いたいことだけを唄ってきた。友部のまっすぐな唄は、その言葉の切実さで、聴き手のハートをノックする。BGMにはなりにくい音楽だ。

 72年に『大阪へやってきた』でアルパムデビュー。シングル「一本道」は知る人ぞ知る日本フォーク史の名曲だ。当時のフォークシーンに数多く存在した“ディランの子供達”としてのデビューだつた。 岡林信康、吉田拓郎、泉谷しげる、など“日本のディラン”と呼ぱれデビューした唄い手は多いが、友部ほど“日本のディラン”が似合う人はいない。まあ友部自身、そんな呼ぱれ方は好きではないだろうが、ぽくは誇りを込めて“日本のディラン”と呼びたい。何故なら、ディランが現在も音楽シーンのフロントラインに位置しながも、ワン・アンド・オンリーな存在であるように、友部正人も日本の音楽シーンに欠かせない、現在進行形のワン・アンド・オンリーなのだから。

 今の日本の音楽シーンは、実に多様化している。テレピで唄っている人達や、ヒットチャートを賑わす人達の音楽がすぺてではない。むしろ、マスメディアに乗らない部分の動きの方が激しく、熱い。そんな中、友部の活動は地味ながらも多彩だ。コンサートシリーズ『待ち合わせ』における矢野顕子、井上陽水、仲井戸麗市、パンタなどの古強者達から、たま、ブーム、グルーヴァーズ、どんとや三宅伸治、町田康といつた若手のクセ者達とのジョイント。また梅津和時、片山広明といったジャズ畑の先鋭とのジョイント。昨年はデビュー25周年記念のベスト・アルバム2枚と2枚組ライブ・アルバムをリリース。さらに音楽活動だけでなく、詩集、エッセイ集、イラスト集などの出版、旅行雑誌「じゃらん」の連載となかなか精力的だ。

 「友部です。またコンサートやりましょうか」と、突然の電話。「じやあ、いつ頃にしましょうか」って感じでコンサートを開いてきて今回で八回目になる。

 その印象はと言うと、友部自身の唄、ギター、ハーモニカによるまったくの弾き語りで、初めて聴く人は、そのシンプルさに戸惑う。唄が裸で飛び込んで来るからだ。ステージはさり気なく進行する。喋りで笑いをとったり、激しくアジることもない。友部正人が唄っている。ただそれだけなのだ。ただそれだけで26年も唄い続けてきた男の存在感が素晴らしい。
                   
(1998十日町ライヴに寄せて)

 ★友部さんのB-25

 高校生だった頃、友部正人の「一本道」と小坂忠の「機関車」を聴かなかったとしたら、僕は日本の歌に興味を持てず、洋楽ばかりを追いかける音楽好きになっていたと思う。歌詞が理解できなくたって本場のロックの方が絶対にカッコよかった。
 ところが、「一本道」を聴いてしまった。「機関車」を聴いてしまった。共にラジオで初めて聴いた。唄がホントに心に届いてしまった。こんなことは初めてだった。
「機関車」の頃の小坂忠はジェイムス・テイラーだった。GibsonのJ-50を抱えてダンガリー・シャツにストレート・ジーンズにワーク・ブーツ。ちょっとフラットぎみに唄う感じはJ.Tそのもの。スタイルはJ.Tでも小坂忠っていう個性はシブく光っていた。

 友部正人「一本道」の衝撃は「機関車」以上だった。唄として吐き出される言葉のひとつひとつが生き物のようにリアルだった。あの塩辛い、友部さんの魔法の歌声によって、詩的な言葉が動き出すのだ。トーキング・ブルース「大阪へやってきた」の壮絶な唄いっぷりはどうだ。嵐のようなハープ、疾走する車のごときパワフルなギター。日本人によるブルース表現で「大阪へやってきた」を超える唄をまだ知らない。

 そんな友部さんが'86年、僕達の津南町「我楽多倶楽部」へ唄いにやってきた。シャイで笑顔があったかい素顔の友部さん、唄いだすと・・・やっぱりシャイで誠実に歌と向き合う友部さんがいた。友部さんが津南・十日町へ唄いにやってきたのは8回を数える。使用したギターもギルド、ギブソン、エピフォンとさまざま。僕が一番気に入ったのがギブソンB-25。あまりポピュラーなギターじゃないが、ちょっと小ぶりなボディのわりに鳴りのよいギターだ。なにより、持ってるだけでシブイ。

持ってるだけでシブイB-25を僕も手に入れた。すごく良く鳴る。でも友部さんのほどは鳴らない。当たり前だ、友部さんとB-25は30年近いつき合いのはずだ。数えきれない程のライヴを共にしてきた歴戦のギターだ。こうゆうギターには風格がある。僕のB-25には風格がない。僕のせいです。
                            
(1999.7)

友部さんのプロフィール